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目 次
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序に代えて チャイナウオッチと日本史ウオッチは通底する
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1
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第一章 朝河貫一を知っていますか
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朝河史学を読む――日本史の三大革命と天皇制 13
朝河とイェール大学 14
朝河の一九〇六年第一次帰国 16
朝河史学と朝河平和学 17
ポーツマス講和会議と「イェール大学覚書」 18
日本史の二つの革命――大化改新と明治維新 21
朝河と同時代の日本歴史家たち 26
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第二章 朝河貫一の歴史語録
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第三章 入来で語る朝河英訳本の黙殺情況
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第一節 敬して遠ざけられた朝河貫一史学 54
第二節 入来文書出版当時の内外書評 71
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第四章 数奇な入来文書の運命
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1 「英文の訳注」こそが「主体」だ 102/2 英文序文に見る朝河の決意 103/3 日本封建制発展の資料提示は、初めての試み 104/4 謝辞を捧げられた人々 105/5 朝河の第二次帰国、入来訪問は一九一九年夏 106/6 朝河の英文序説 109/7 南九州というところ 109/8 「大化改新」当時の南九州 110/9 水田均分制度の崩壊と庄の成長 111/10 島津庄について 112/11 地頭・守護としての島津忠久 116/12 守護の権限 117/13 忠久の弱点 117/14 領主としての忠久の役割 117/15 一二四七年、渋谷兄弟の薩摩下向 118/16 蒙古の役と守護職 118/17 足利尊氏と島津貞久 119/18 藤原による島津領の終焉 119/19 島津庄の終焉一三五二年 120/20 「貴族の庄」から「大名の庄へ」 120/21 一六世紀後半に領地を集中 121/22 秀吉に忠誠を誓って島津が得たもの 121/23 徳川体制下の島津藩 122/24 渋谷兄弟が島津庄寄郡の新地頭に任命 122/25 渋谷氏を迎えた島津氏の不安 123/26 武蔵渋谷と相模渋谷 123/27 鎌倉幕府の実権は執権の手に 125/28 千葉氏の没落を機に地頭職を得て薩摩へ 127/29 行為のあとで執権の許可を得た 127/30 五つの地頭職を兄弟間で配分 128/31 斧淵の東郷宅が渋谷一族の中心 128/32 武士であり、農場の管理者 129/33 地頭の立場、御家人の立場 129/34 領域内に寄郡に加えられない土地あり 130/35 女性への職相続 131/36 五つの家族は、多くの小家族に分かれた 132/37 一六世紀半ばに入来院が一族の中心になる 133/38 領地を失う(鶴田一四〇一年、高城一四二二年、祁答院一五六五年、東郷一五八七年) 133/39 地名としての入来院と姓としての入来院 134/40 入来院が島津に屈伏するまでの六〇年戦争(一三三三〜九七) 137/41 島津の三回にわたる清色攻撃(一三九五〜九七)で、入来院が屈伏 138/42 入来院が不在領地(相模、上野、美作、伊勢、九州北部)を失う 138/43 一五三九年山田と郡山を征服し、入来院領地は倍増――政治力のピーク 139/44 本領と新恩の区別 139/45 自由相続から長子相続へ 140/46 入来院は一五七四年に島津家臣になる、島津は秀吉支配を受入れる 141/47 重高の清色帰還と誇らしい清貧 141/48 朝河の入来訪問一九一九年 143/49 朝河は二五三文書を選び、一五五までの通し番号を付した 144/50 漢文で書かれたもの、かなで書かれたもの 145/51 英訳について 146
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第五章 朝河の職shikiを誤読した米国ジャパノロジー
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第一節 朝河貫一史学に対するジェフリー・マスの批判 148
第二節 ジェフリー・マスの頼朝・鎌倉幕府研究の到達点 153
第三節 ジェフリー・マス流「のっぺら坊二重政体」論の欠陥 162
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第六章 網野史学、そして近年の潮流
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『朝河貫一と日欧中世史研究』を読む 180
入来文書は島津文書の付録ではない 186
保立道久や似鳥雄一は、朝河史学に敵対する 190
保立道久著『歴史学をみつめ直す――封建制概念の放棄』の迷走 196
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補章 ペリーの白旗が語る日米関係の真実
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第一節 対米従属の原点、「白旗授受」はなかったのか? 199
第二節 「白旗」授受のあらまし 211
第三節 ウィリアムズの役割を評価する 245
第四節 朝河によるウィリアムズの評価 271
第五節 「白旗」論争――無言劇に始まり、悲喜劇は今日も続く 281
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結びに代えて――内外整合的な日本史を描く
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305
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人名索引
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314/i
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