いま石上玄一郎作品集成の大冊の三巻を横目にして、少しく襟をただす。とにかく読んで三巻目に到りつきようやく下山した。いや、下山というより、戻ってみると重厚広大な平地を一歩一歩進んできた感覚が忘れがたく刻印される。さて、書評というからには、感想程度で宥していただけまい。もし氏の主題論からみて重要な作品群が逸早く国外で翻訳されていたならどうであったろうかという魅力的な問いがある。
第三巻目からいえば、「自殺案内者」(一九五〇、三三〇枚)、作者四十歳。戦争による精神的病いの後遺症について。これはすでにのちにくる戦争に狩りだされる人間の運命的病いを言いあてている。第二巻からいうと、「緑地帯」(一九四四、七〇〇枚)、この脱稿後、作者は中国へ渡り、二二年に引き揚げ船で帰国する。この主題を考える場合、石上玄一郎というのは、東北出身の、いや、幼年は日本の植民地札幌、有島武郎邸の離れに家族で住み、父の死後は祖母の盛岡へ、盛岡から旧制弘前高校へという風土の移民性は周知の通りだが、旧制弘前での左翼運動の始まりから追うと、やがて放校を経て特異な日本型ナロードニキとして、同時に精神の根底ではアナーキストとしての魂が形成される。といった流れからいえば、長編「緑地帯」の主題は、戦時下にあってユートピア(都市の緑地運動、国土の革命)構築に邁進して狂死する、夢想家(革命家)の思想となろうか。この主題は、現在の二〇〇八年段階で、世界のエコロジー的主題を先取りしていたことになる。
忘れてならないのは、石上氏の場合、余りにも明瞭に、これは岩手の精神史の特徴だろうが、文学表現の言説の土台に、一種のユートピア的科学精神がある。ただユートピア建設を夢見るのではない。彼は最前線の科学知識すなわち哲学を文学の基本にすえて、文学に拠って人間を考えている。これは同じ郷土の宮澤賢治の流れ。この「緑地帯」を当時の世界へだしていたならどうだったか。胸躍るようなことだ。この長編では主人公、北海道の植民に成功した一族の子息が廃嫡者のごとくになって首都で獅子奮迅の運動をして倒れるという筋書きによっても、植民地北海道までの歴史が背景にある、ということは作中に語られるように、アイヌ民族までの運命が明瞭に意識されている。日本語文学が、戦時下にあって、彼によって文学の主題を固守していたことも見えてくる。少し言えば石上版ドストエフスキーの「白痴」といってもいい。
で、一巻目からとなれば、「精神病理学教室」(一九四二、一八〇枚)。もちろんこれはのちの「自殺案内者」「緑地帯」の系列の始まり。以上の三作品が長いもので主題的に氏の代表作であるけれども、しかし氏を読む場合、この主題論によって目晦されてはなるまい。というのも、主題は文体あってのこと。そこで有効な対照の例は太宰治。旧制弘前が同窓であった。言ってみれば、いわゆる<東北文学>の世界性は、太宰の語りの文体と、石上の叙述の文体によって確保されるとしていい。テクストは今の時代、何も日本語読者ばかりではない。翻訳の時代なのだから、日本語にあぐらをかいていられまい。で、太宰の言語が口語の抒情と諧謔であったとすれば、石上は文章の叙述体。にも拘らず、青春時までに形成される風土精神の感染は恐ろしいもので、両者ともに、東北の民俗・フォークロアの気息(リズム・韻律)を有して離さなかった。
画に譬えて言えば、太宰は一筆書きの〈俳画〉、見ればみるほどおもしろい。石上は、同じ東北でも、維新でわりをくった岩手は、そのせいで近代洋画王国となったわけだが、その洋画の油彩筆致の緻密極まりない細密描写(科学的)とその油のマチエール。こうした対照によって、ぼくは全三巻およそ二千ページを読んできた。そして素材は変転するが、数多の同工異曲に音楽性をも覚えて醍醐味をあじわった。
そして太宰と石上、この二つの風姿を、何に譬えたらいいかと思うと、太宰はやはり津軽の岩木山(思いがけず急峻にして骨太)、かたや石上はやはり、岩手山は賢治だから、早池峰山。こうして譬えれば、早池峰は急峻ではないがその辿りは石上作品そのものの魅力に思われ、早池峰を渡った頃の思いがよみがえる。とここまで言えば、ぼくにとって、石上作品は言わば初期の第一巻に収められた名品「鼬」に始まる東北語と民俗を語りきった口語性を一番の功徳とする。昭和十年から始まるが、かけがえのない天才的な作品をここで生み出した。まことに有り難いかぎりだ。もの凄い言語だった。最後になるが、第三巻に収められた谷真介氏の「解題」も読み終えるのが惜しくてならない労作であった。(言い忘れたが石上文体が何処からきたものかと思いつつ、ぼくなりの結論があった。ドストエフスキーではなかった。彼の中短篇は、チェーホフの〈ロシア語そのもの〉だ、とすると、ぼくには全て氷解したように思ったことも補足しておきたい。)
(ロシア文学)
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