『ダダ大全』――序文に「ダダ体験のドキュメントの集成」とある。1910年代半ばから20年代にかけてヨーロッパ、アメリカを席巻したダダの発祥地、チューリッヒでのやりとりがぶちこまれている。通史の類書とは異なり、ここには年代記やら宣言、詩作品さらに同時代評まで、生でどがちゃがのてんこ盛り。この一冊自体がダダ作品ともいえそうな印象だ。
読み進めば、詩はもとより、宣言やらスキャンダラスなエピソードを伝える散文やらにも逆説、冗談、パロディ、言葉遊び。ときに言葉は意味を剥ぎとられて頭のなかを駆けめぐり、さながらブラウン運動。あれれ、と見るまに思いがけない別の顔を覗かせたりする。ダダの術中にはまったというべきか。抜けめなく添えられた同時代評は、そんなダダの手管を示すよう。その熱気、否応なしに伝わってくる。ツァラの言葉を引くなら「肥沃な痙攣」(ダダ宣言1918年)が面白がる気分をくすぐってくる。
昨今、インスタレーションとやらも含め視覚的表現は多彩を極めているようだ。それはそれで結構なことだが、その珍奇な表現が「芸術」としていかにも抵抗なく受け入れられているかに見える。人々はそれを自分の生活に含みこんで納得しているのだろうか。妙にものわかりよく、まあ、おやんなさい、といわれているように見えるのは私の僻目か。
今も記憶に残る滝口修造の文章の一節がある。曰く「芸術ほど朽ちやすく、消えやすいものはないのだ。しかも、凡百の芸術は残る! うずたかく残る!」
内外ともただならぬ閉塞状況にズドン! と撃ちこむダダ的なるものがでてくるべきではないのか。
その逆説、否定、反審美主義でダダを体現してみせた20世紀を通じての問題提起者あるいは希代の美的詐欺師マルセル・デュシャンがどこかで、ほれどうした、といっているようにも思えてくるのだけれど。
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