『サミュエル・ベケットのヴィジョンと運動』の書評

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コ ー ド
ISBN4-89642-123-X
書  名
サミュエル・ベケットのヴィジョンと運動
著  者
近藤耕人 編著
書  評
タイトル
日本初のベケット論集
評  者
大野麻奈子
掲載誌紙
「ふらんす」
2005年6月号
サミュエル・ベケット(1906―1989)がダブリンの郊外で生まれてから来年でちょうど100年経つ。若くしてパリに移り住み、フランス語で書いた戯曲『ゴドーを待ちながら』によって一躍有名になったこの作家について、日本で初めて論文集が出版された。編者であり日本サミュエル・ベケット研究会の会長でもある近藤耕人氏を中心として、精鋭13人の研究者がそれぞれの視点からベケット作品について論じている。
ベケットというと、とかく「不条理演劇」と「ゴドー」という二つの単語のみに収められてしまいがちだが、実は詩(若いとき)も小説も、そして戯曲も舞台作品だけでなくラジオ用、テレビ用作品、さらには映画までも作ってしまったという多彩な仕事ぶりを発揮していた作家なのだ。そうした多様性と、新しい世界とをつねに模索しつづけたベケットの創作のダイナミズムに肉迫しようという、研究者たちの情熱もまた伝わってくる一冊である。
論集は「可視と不可視のあいだ」「テクストの多文化性」「身体と感覚」「コスモロジーのゆくえ」という四部構成となっている。
「可視と不可視のあいだ」では、ベケット作品に頻出する眼、視覚といったテーマを文化史、思想史的な観点から、またベケットも造詣の深かった絵画との関係もふまえながら分析した論文が掲載されている。
「テクストの多文化性」では、一つの地域と時代だけにはおさまりきらないベケットを、アイルランドとの関係、他の作家のテクストとの関係などから論じていく。また、母語ではないフランス語でも創作し、自己翻訳まで手がけていたベケットを読み解くには本質的ともいえる言語論、翻訳論的観点からの論も展開されている。
「身体と感覚」においては、ベケットの創作方法について、草稿における変更部分からベケットの創作の動きを探求したり、ラジオというメディアの使用が作品中でどのような役割を果たしているかが論じられている。
最後の「コスモロジーのゆくえ」においては、哲学にも傾倒していたベケットの作品に見られる宇宙観についての論が収められている。ライプニッツ、錬金術、そして17世紀の思想との関係がそれぞれ述べられ、ベケット世界と人文科学全般との深いつながりが明らかにされていく。
13人の異なる視線は、ベケット作品について新たな解釈を展開させるとともに、ベケットを通じて世界を読み解こうとする真摯な試みでもある。専門家だけでなく、現代思想・芸術に興味のある人にとっては、一読する価値のある論集であろう。


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