少年ティムは、お腹の底から湧き出る、素敵な笑い声を持っていた。最後にしゃっくりでしめくくられるその笑いには、周囲の人たちをも楽しく明るい気持ちにさせる力があった。
ティムが十歳のとき、大好きな父親が仕事先の事故で不慮の死を遂げる。苛酷な現実に耐えかね、彼は、父との思い出の場所――競馬場――で出会った謎の紳士の言うがままに、彼の素晴らしい笑いを売り渡す契約を結んでしまう。取り交わされた契約書には、笑いの代価としてティムがいかなる賭けにも勝つようにする、もし勝たなかった場合、笑いは戻るが、この契約のことを口外すると両方を失う、とあった。
意地の悪い継母と義兄に競馬で手に入れた金を渡し、十四歳で家を出たティムは、船乗りになり、様々な人と出会う。そして富の虚しさ、失った笑いの重大さを思い知り、自分の笑いを取り戻す決意をする。しかし必ず負けると思った「一夜にして世界一の富豪になる」という賭けにまで勝ち、笑いの買い主であるL・リュフェット男爵(“lefuet”鏡に映ると“teufel”悪魔)と再会することになる。ティムはさらに男爵の陰謀で、共に世界の国々を巡る運命になるのだが……。
『ザリガニ岩の燈台』等の短編集で知られるドイツの作家クリュス(1968年、国際アンデルセン賞受賞)が、1962年に書いた唯一の長編。クリュスはこの作品で古典的な“悪魔との契約”を真正面からテーマに据え、「内面への自由」であり、「人と動物を区別するもの」でもある笑いの本質に鋭く迫る。「笑うことを教えてください。そして魂を救ってください!」というティムの心の叫びが読者の胸を打つ。
その一方で、競馬や株、取引や経営、マーガリンの販売戦略といった、一見児童文学らしからぬ場面が詳細に描かれる。読者はティムと共に「大人の世界」にじかに触れることで成長し、友人の大切さを知り、笑いを取り戻すまでの困難な戦いの過程をスリリングに共有することになる。
物語は、語り手の“わたし”が大人になったティム(と思われる人物)から話を聞く、という枠組みの中で展開する。これまで、枠を省略し本編のみの抄訳しか出版されていなかったが、今回の完訳で物語の陰影、奥深さが増し、作者のメッセージがより明確に伝わってくるようになった。
クリュスは現実的だったドイツの児童文学に空想的な境地を開いたといわれ、この作品とはまた趣きの違う楽しい短編も多い。他の作品の復刊も望みたい。
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