『ベビュカン』の書評

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コ ー ド
ISBN4-89642-091-8
書  名
ベビュカン あるいは奇蹟のディレッタントたち
著  者
カール・アインシュタイン 著 / 鈴木芳子 訳・解説
書  評
タイトル
惰眠をこじあけるもの
評  者
面谷哲郎 (おもやてつろう)
掲載誌紙
投稿
――奇妙な小説だよね。これを小説と呼べばなんだけれど。
――小説と呼ぼうが呼ぶまいが、どうでもいいさ……ともかく話は奇妙な見世物小屋から始まり、主人公ベビュカンの部屋、酒場、修道院のある森、サーカス小屋へ転々と移る。時間経過も前後の因果関係も定かでない。その間、ベビュカンは得体の知れぬ連中と芸術、哲学談義を繰り広げる。連中とは、生者か死者かも不明な実体のないベームなるもの、口先ばかり達者な画家、それに酒場のマダム、女優、娼婦がからまる。談義は猥雑な空間に転がり続け、「形而上学と道化芝居が交錯」する……。
――そんな説明、無駄だね。小説の構造なら巻末の丁寧な解説で納得すればいい。それより芸術、哲学談義には対話篇の趣があるな。どうやらソクラテスはいないようだけれど。
――パロディかな。というのは、対話のようで対話でない。主人公の内面の矛盾がそれぞれ別人物の口を借りているようだ。そもそもキュビスム小説なんて手法は小説という形式のパロディなのかな。――いや、もっと積極的なものさ。キュビスム絵画や彫刻は対象の多面を同時に捉え、いわば複眼的に表現する。それを小説に応用した格好だ。事物と向きあうベビュカンが次々に脈絡のないエピソードで示される。現象そのものが生々しく体感されて、読者はベビュカンのいる空間に投げこまれ翻弄されるといった感じ……。
――エピソードはいわばベビュカンの自己認識の遍歴、というかそれが不可能という確認作業みたいなものだけれど……あの、誰でも自意識がむきだしの神経みたいにぴりぴりしてる時期ってあるよね。で、自分を囲む世界を不快に思いながら、同時にそれとの対応でしか自分を確認できない不快さを味わう。われわれはとかくこれを一過性のものとしてやり過ごしてしまう。でも、それは精神を眠らせているんだろう。そんな惰眠をむさぼっている状態を、この小説はいささか過激な手法で、こじあけるといった印象がある。
――読書することで読者は自分自身を読み返す、そんな意味のことを誰かがいっていたけれど、この小説はまさにそれだろうな。
――ところで、妙なこと思いだした。四十年ほど前、二十歳前後に同人誌仲間が書いた短篇。若い学生が町なかで往来の多い橋にさしかかる。ま、お茶の水橋みたいなところ。ふと顔を上げると前から来る人の目に自分が映っている。来る人、来る人の目に自分がいろんな格好で映るのを見るうち、ある種の崩壊感覚に落ちこんで橋の途中でへたりこむという……。
――なんだかネクラな自意識だね。ベビュカンにつながるかな、どうかな……ん? それ、もしかしてあんたが書いたんじゃないの。


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未知谷