映画『男はつらいよ』で、人間はなぜ生きてるのかな? と甥の満男に問われた寅次郎が名回答をする。生きてるとな、ああ生きててよかったなあって思うことがあるからじゃねえのかい。おもしろい本、いずれまた再読したいと思わせるような本に出会うと、こんな寅次郎の言い草みたいな気分になったりする。一口でいえば『フェイエトン』はそんな本だ。小生の歳のせいかもしれないが。
中世の匂いが漂う古い街の小さなエピソードが親しげな口調で語られる。下層の、それもちょいと変わった人物が多い。コントのような落語のような人情譚ともいえるが、ゆるゆる流れる滑稽さは物哀しい。残酷でさえある。例えば、他所者が街で粉屋を開いた。物好きが一人二人来るが、お客はさっぱり。結局、閉店を余儀なくされた翌日、店前にたいそうな人だかりができる。というのは? あるいは、街の住人に愛される物乞いの老人がいた。施しを受ける訪問先が毎日決まっているほどだったが、ある噂を境に誰も相手にしなくなる。その揚句……。こんな話の一方、ハックルベリーの世界みたいな悪童連の話もある。なけなしの小遣いで武器を調達、「革命」を起こそうというのだからスゴい。いかにも背景にある時代や土地の事情を窺わせる。クイズめいた入試問題に取り組むばかりの日本の子どもに、どうだ! といってやりたい世界がある。
プラハに関わる文学者といえば、小生はカフカとチャペックしか知らなかった。どちらにも陰をまとったナンセンスというか、暗い滑稽さが底に流れ象徴性を帯びていると思っている。複雑な歴史事情がそうさせたのか、そういう風土の伝統なのか分からないが、ネルダの作品にも同種のものが見え隠れするようだ。それが読む者の内面に澱む屈折した気分を刺激し、やがて物思わせる趣がある。
詳細な註や解説で読書はずいぶん助けられそうだが、それがなくても十分に楽しめる。じつは小生、おもしろさに背中を押されるまま読み急いでしまい、この部分は斜め読みだった。いずれ再読の折にはじっくり読もう。きっと興趣はいっそう深まるに違いない。
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