宮澤賢治の『黒葡萄』はざっと四十年ほども前、二十歳頃に読んでいるはずだが、そのときは面白くもなんともなかった、と憶えている。賢治ファンでも賢治読みでもなかった小生は、それきり忘れていた。それをこの度、絵本仕立てで改めて読んだらなんとも面白い。『注文の多い料理店』などよりよほど良質な作品と思えもする。当方の歳のせいでもあるのだろうか……。
すばしこい狐とぐずな仔牛の道行には、落語の『二人旅』を連想したりもする。逡巡しつつ狐についていく仔牛の心理にいちいち頷かされ、書物ばかりの部屋に迷いこみ「支那の地理のことを書いた本なら見たいなあ」なんてあたり、うふふと笑ってしまう。「蜂蜜の匂もする」だ「そばの花の匂もする」だと能書きたれて葡萄のつゆばかり吸って皮も肉も種も吐きだす狐に、「うまいだろう」といわれると「コツコツコツコツ葡萄のたねをかみ砕いて」いる仔牛が「おいしいよ」と答えるあたりも、いいなあ。この狐や仔牛には我々が持ち合わせる何かを重ねられるかもしれない。が、二匹の冒険譚はじつにあっさり結末を迎える。これがまたいい。仔牛が首に結んでもらう黄色いリボンもあれこれ詮索できそうだが、その必要もあるまい。墨一色の版画に点じられたレモンイエローは、なんとも贅沢な気分にさせてくれる。それで読者たる小生は大満足。
いうまでもないが、全篇に亘る版画のお手柄を見逃せない。先に『浅岸村の鼠』『カエルの学校』でもお目にかかっているが、『黒葡萄』ではとりわけ淡いグレーの調子が素晴らしい効果を上げている。版画の特長は月並みにいえば素朴な味わいとなろうが、どうしてどうして、したたかな職人芸が潜んでいるとみえる。妙な物言いをするなら、旨さをみせない旨さ。それが賢治の文章を巧みな話術に乗せている感がある。
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