『テーブルはテーブル』の書評

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コ ー ド
ISBN4-89642-074-8
書  名
テーブルはテーブル
著  者
ペーター・ビクセル 著 / 山下剛 訳・解説
書  評
タイトル
読まれずに いればいいなと ネクラいい
評  者
面谷哲郎 (おもやてつろう)
掲載誌紙
投稿
予め評判をまるで知らないまま偶然出会った本がすこぶるおもしろくて気にいると、まるで自分が発見したように思うことがある。そんなとき、あまり売れないでくれるといいがなあ、などと思ったりする。版元にすればじつに迷惑な物言い。けれど、それが評判になって売れ、多数の目に触れると、自分の発見(?)に手垢がついてしまうように思えてしまうからで、自分のお気にいりをそっと大事にしておきたいとでもいう、ま、かなりネクラな思い。小生にも少々その向きがあるようで、『テーブルはテーブル』はそんな一冊。これ、おもしろいというより、おかしいといいたい本だ。この「おかしい」は、変だ、間違ってる、というのではない。滑稽+不思議+見事+αとでもいう感じで、αにはうまく説明できないドキリとするものがある。
短篇が七つ。「地球はまるい」の男は、丸い地球を確認すべく歩いて一周しようとする。一本道を踏みはずすまいとすればたちまち目の前に障害物。これを踏み越える用具を整えようとすると、用具は無限級数的に加わっていく。「テーブルはテーブル」の老人は、使い古された言葉を自分の好みに変えてしまう。それまでの意味を脱ぎ捨てた言葉は伝達不能になると、飛んだり跳ねたり生き生きしてくるかにみえるが……。「アメリカは存在しない」では、冒険の旅にでた少年が帰還して新大陸発見をでっちあげる。事実は冒険どころか森に潜んでいただけ。ところが発見は、つづいてでかけた別の男に確認される。この男の冒険も怪しいのに、あっさり事実として発見は一人歩きしていく。「発明家」の男は、既に世間周知の発明を当人だけ知らずにいて、ひたすら独力で発明に没頭する。「記憶マニアの男」の男にとっては、実際に旅行することより時刻表のデータのほうが意味をもつ。「ヨードクからよろしく」では、存在の疑わしいヨードクおじさんについて語りつづける祖父が登場。やがて祖父は「ヨードク」以外の言葉を失ってしまう。と、そこまできて語り手はいう……。「もう何も知りたくなかった男」は、もう何も知りたくなかったので、「自分が何を知りたくないのか、知らなければならない」と気がついて勉強を始める。
どれも、私たちがよく心得ているつもりでいる現実から筋を一本踏みはずしているようで、そのまま進んじゃうとこうなる。と、そんな趣がある。ひと頃よく口にされた不条理といったものとも、どこかに接点がありそうにもみえる。
どれも、おかしい。げらげら笑わされながら、そこになにか透いてみえてくるものの気配がある。この気配は何だ?
それは、巻末の解説(ビクセル作品の「物語る行為」について丁寧な分析が試みられている)から引くなら、「動かしがたい現実」と向き合う「反世界」となろうか。現実を現実としてみる目がセンスなら、現実の深層を覗きみるナンセンスともいえるかもしれない。いわゆる児童文学は、「子供も読める」ものといわれ、「大人も読める」ものといわれたりもする。この一連のビクセル作品は、どうやら後者に当たるとみえる。おそらく大人は屁理屈をこねつつ楽しむのだろうが、子供はそんな必要なしで楽しむにちがいない。大人はいわば「哲学的」な問題にひきずりこまれるだろうが、子供は哲学的な「遊び」を楽しむにちがいない。どちらによしあしはないけれど、楽しいのは子供のほうに決まっている。と、そう思う。
最後に蛇足を一つ。読了後に突飛な連想をした。クレー最晩年のデッサン類がふと頭に浮かんできたのだ。手が不自由になってきていたと聞きおよぶ時期の、太い線でなる画面。何故だろう。説明しようとすればできないこともなさそうだが、結局は言葉足らずになるだろう。そう思って考えないことにした。


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未知谷