『ティルとネリ』の書評1

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コ ー ド
ISBN4-89642-072-1
書  名
ティルとネリ
著  者
ヴェーラ・フレーブニコワ 著 / マイ・ミトゥーリチ 絵 / 北川和美 訳
書  評
タイトル
近ごろ「スロー」を堪能したこと
評  者
面谷哲郎 (おもやてつろう)
掲載誌紙
投稿
人間の時間感覚というのはまことに恣意的なものだと思う。ふとした好奇心から時間論の入門書めいた4、5冊を読んで、も一つ理解が及ばぬままどうやら時間てなもの存在しないらしいと思いはじめている。ある種の経過を計測する仕掛けはあっても、計測されると見えるのは仕掛けの刻みに過ぎないんじゃない? と。ボクサーは1ラウンド3分の時間を肉体感覚として身につけるが、これなど当人本来の時間感覚でなく物理的な計測時間を肉体が覚えこむに過ぎない。無理しているのだ。過日読んだ某時計企業主催のシンポジウム記録では、時間がいかに時計と無縁であるか分かりました云々の発言を見つけ笑ってしまった。そのあと、「スロー」なる言葉が流行しているとの新聞コラムに出会った。「スローライフ」てな物言いがなされているらしい。文化風俗もどきを先取りする口調で、人間が「必死に手間を省略した結果、余ったはずの時間はどこへいったのだろうか」云々。もっともらしく語っていた。
言われるまでもなく自分の日常も時間、というか時計に刻まれていると思う。もう習い性になっている。例えば読書していても、誰にせかされもしないのに読み急いでしまう。面白い面白くないに関わらずなぜか、妙に慌ただしく最後まで行ってしまう。なにか違うんじゃないのかな、そう思いつつそれから抜けられない。そんな折に『ティルとネリ』の一冊を手にした。どちらかといえばクラシックな造本。でも、その控えめな印象が快い。1937年のクリミア半島、二羽のワタリガラスの雛に出会った少年がやがて二羽を飛翔できるまでに育てるひと夏が描かれる。クリミアといってヤルタ会談を思い浮かべれば年齢のほどが知れるが、そんな殺伐とした世界ではない。少年の一家が過ごすのはヤルタと並ぶ保養地のスダク。日々は日昇りどきに始まり、日没とともに終える。そうなのだ、これが本来の時間感覚なのだと今更のように思う。一日を24時間均等に刻む必要はない。そのときどきで時間は伸びも縮みもする。そんな自在な時間感覚のなかで自然が息づき、少年とワタリガラスとの交歓が展開される。行間から、ゆっくり行きましょうやと囁きが聞こえてくるよう。で、そうそうと頷きつつ「スロー」に浸る。かくて挿画も併わせ30頁弱の作品に、一日がまさに地球の自転とともにあるといった豊饒な時間を堪能した。
ハシボソガラスやハシブトガラスが身近な小生にワタリガラスは馴染みはないが、日本でも冬鳥で飛来するらしい。E・A・ポーの「大鴉」に登場するのもこれだとか。それを育てるといえばいささか異様とも見えそうだが、少しも違和感はない。巣から落ちた雛は生きられぬ定めなら少年がワタリガラスを育てるのは、あるいは生態系を損なうものかもしれない。が、そこには自然がごく当たり前のものとしてあり、人間が最小限の手出しで動物と共生するルールが守られていると見える。そう、アザラシがやって来たといって大騒ぎする愚劣さはない。近ごろ東京などで目の敵にされるカラス、邪険に排除される野良ネコといった対応も、無論ない。ったく人間は身勝手なもので、一匹ン十万円てなペットを売り買いし得々と愛玩するかに見えても所詮、人間だけに都合いいようにことを運んでいるに過ぎない。「えーかげんにせえ、責任者でてこい!」とボヤキ漫才なら一言あるところだ。なんて、ちと脇道にそれました。
ところで、訳者によればクリミアで夏を過ごした1937年、作品が執筆された1938年はスターリンの大粛清が行われた時期であるとか。少年が育てたワタリガラスは大空を飛翔できるようになると、まもなくハンターに銃撃されて結末を迎える。およそ同時代の社会状況の影も見えない物語の底深く苦いものが潜むようだといえばうがち過ぎだろうか。


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未知谷