『カエルの学校』の書評1

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コ ー ド
ISBN4-89642-071-3
書  名
カエルの学校
著  者
森荘已池 著 / たなかよしかず 版画 / みやこうせい 解説
書  評
タイトル
カエルの歌が、ちくりとくるよ
評  者
面谷哲郎 (おもやてつろう)
掲載誌紙
投稿
『浅岸村の鼠』の作家の、十数年後の作品である。昭和十年代半ばの前著に対し、本書は二十年代後半。前著にも背景とする時代が見え隠れするが、本書では一層直裁に時代の様相がうかがえる。風刺性が強いといおうか。そのぶん土着的な雰囲気が薄れているかもしれないが、同時代を体験する者には、面白さ、おかしさがまともに伝わってきて分かりやすい。その風刺の目には、敗戦直後から二十年代半ば過ぎまで人気を博したNHKのラジオ番組、三木トリローの『日曜娯楽版』が幾らか影を落としているか、と思ったりした。で、当時小学生で聞いた断片が、ふと蘇る。本書に「パンパン」なる言葉が登場する。もはや死語だろうが、これを使ったコント――「冗談音楽 世界文学篇」てなもので、取調べ官と女がやりとりする。「ジャンバルジャンはパンを一つ盗んで罰せられた。お前は何をした」「はい、パンを二つ」。パンパンの実態を知るわけもないが、これでけらけら笑っていたとすれば、ヤな小学生だ。そうそ、♪ぼくは特急の機関士で、若い娘は駅毎に……こんな歌を、今でもうたえますなあ。『日曜娯楽版』は、「汚職汚職で半年暮らす、ヨイヨイ、あとは議会で寝て暮らす」なんてのを放送しようとして、おカミから待ったをかけられ消滅したと聞いている。
昔ばなしはさておき、風刺の目とはいいながら本書は、ただ野次馬の目で揶揄しているというのではない。作家特有の想像力が働いて、独特なユーモアがかもしだされる。それは、カエルを擬人化しながら単なる人間もどきにしていないせいだろう。前作の鼠でも、その人間っぽい姿に鼠特有の生態が巧みに重ねあわされていたが、本書のカエルも同様だ。例えば、瞼を二重に手術する人間界の流行がカエル界に移されると、瞼の開閉を緩やかにする手術になる。こんなひとひねりが、人間の愚行をちくりと刺して笑わせる。
さて――話は、雨ガエル小学校での「恋愛」騒動を縦軸に展開する。オスガエルの先生と授業参観にきた未亡人ガエルが互いに恋のとりことなり、あろうことか授業の最中に「恋愛」を始めた。といっても、人間や他の動物のように卑しい真似はしない。ただ互いに見つめあい恍惚たる時間を共有するという、まことに優雅な(?)恋愛。これをめぐってカンカンガクガクやりとりがなされるなか、作者の筆は自在に脇道にそれてカエル界の諸相に触れていく。「古池や蛙飛び込む水の音」をめぐるカエル文学界の諸説。人間の酒を飲みたいと野望を抱いた飲み助ガエルの顛末。俗物政治家ガエル・大臣を勤める哲学者ガエル・評論家ガエルの鼎談(それもテレビ中継)。さらにはナマズの子に間違えられたオタマジャクシの奇跡の生還と悲しい結末、等々。落語の地噺が途中であれこれ脱線しながらサゲに行きつくような、そんな手法を連想させる自在な語り口で読ませる。これに、アプレ風俗やら道徳教育や破防法やら同時代の世相が織り込まれて、風刺の針が覗く。校長ガエルが「カンネンのホゾをかため」ようとしたら、ヘソがないのでかためられない。ナマズ夫婦の喧嘩に仲裁は入らない、「ナマズのケンカは昔から誰も食わない」から。とファースを演じて笑わせるカエルの歌が、ちくりと刺してくる。いわゆる斜に構えたところのない表現が、むしろその針を昨今にも通じるものにしていると見えた。
蛇足ながら本書では『浅岸村の鼠』と趣向を変え、カエル諸氏にカタカナ名前が付される。ここに作者の含むところがあるかと見えるのは下種のかんぐりか。どこかハイカラな印象を与えるそれらのうち、ケロツトシタン党の政治家ズルーイヤだの文化省大臣アマノスキーだのは、にやりと頷けるが、浅学なる小生にはにわかに解きおよばぬものが多い。曰く、哲学者トローベラール、校長サワチスキン、女先生アルザンヌ、父兄のブードー、ホルトン、トリコツト、あるいはイモリの医者イーデン、大博士クーポンドフ等々。これをどなたかに読み解きしてもらえたら、カエルの歌も一層ちくりときそうに思える。さて、いかがなものだろう。ところで「恋愛」の顛末は思いがけない終幕を迎える。が、ここはミステリー評の約束事ではないけれど、読んでのお楽しみとしておこう。


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未知谷