『浅岸村の鼠』の書評

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コ ー ド
ISBN4-89642-062-4
書  名
浅岸村の鼠
著  者
森荘已池 著 / たなかよしかず 版画 / みやこうせい 解説
書  評
タイトル
人の世のおかしみを映す鼠の寓話
評  者
面谷哲郎 (おもやてつろう)
掲載誌紙
投稿
 「森荘已池」という名前、たしかに記憶はあるのだがどこでお目にかかったものか思いだせない。記憶の証拠(?)は、ちょっと変わった文字を当てた名を「そういち」と読むと知っているからだ。岩手県出身であれば柳田国男の『遠野物語』や佐々木喜善の『聴耳草紙』にゆかりの人かとも思ったが、どうやらそうでもないらしい。いささか気にかかりながら本書『浅岸村の鼠』を読みだした。
 鼠の話――それが、どこか語りものを思わせる呼吸の文章で、当たり前のように人間同様の姿で展開されていく。その当たり前さが、妙だ。なにしろ鼠たちは住みついている家の人間の名前を自分たちの呼称にしている。鈴木家に住んでいれば鼠たちも鈴木一族を称する。吉田家なら吉田一族となる。暮らし向きも人間の暮らしがそのまま影響して、豊かな家に住みついていれば鼠たちもその豊かさの恩恵を受ける。人間と鼠とがごく自然な共存関係にあった状況を反映しているかと見える。人間のなかには近しい鼠をモチーフにして絵を描き賞金をせしめる画家もあるから、その関係は必ずしも一方通行ではない。そのあたりもじつに妙で面白い。
 で、人間の生活の変貌はそのまま鼠の生活にも関わってくる。折から日中戦争が泥沼化して太平洋戦争の前夜という時代。透き通った赤鬼が火事を引き起こすといった民俗譚を彷彿とさせる部分にも惹かれるが、平穏な日常が否応なしに時代に揺すぶられるさまが土地や時代の風俗に重なって見えてくるのが興味深い。豪傑鼠・忠吉の猫退治は鼠の世界で浪花節になってレコード化されている。これには明治末から盛んになった浪花節がさらにレコードによって全国的に普及するさまがうかがえる。狐の飼育では、戦地の防寒用毛皮の確保について以前聞いた話を思いだしたりした。時期は少し下るのだろうが岩手県出身の人から聞いた話で、兵隊の防寒具用に飼犬の供出まで命じられたことがあるそうな。あるいは鼠の母親は何匹も仔を生むと必要な数を残し、あとは食べてしまう云々(こうした事実があるのかどうか知らないが)。それが、「産めよ殖やせよ」の掛け声で産児奨励に変わっていく。人間の世界の揺れがそのまま鼠の世界に映しだされている。が、それが不思議な自然さで描出されるので、単なる擬人化にとどまらない鼠のリアリティのごときを感じさせるから妙なのだ。お喋りなおかみさん鼠が登場すれば、いるんだよ、こういうのがと人間を連想するけれど、口数が多い鼠の姿が見えてきておかしさがこみあげてくる。しかつめらしい演説をする鼠も、やはり鼠だからおかしい。
 秘密はどうやら語り口にあるようだ。この平然とした語り口はどういうものだろう。巻末の解説に「パロディ」とあり裏表紙に「寓話」の文字が見えるが、そう称するにはあまりに自然な語り口で、企みというものが見えない……と、ここまで書いてきてようやく思いだした。井伏鱒二が直木賞の選評を書いていたはずだ。筑摩書房版『井伏鱒二全集』で探してみると、あった。昭和十九年、第十八回直木賞の選評。「(前略)即興的に執筆したのではないだらうかと考へたが、おそらくこの作者はかういふ姿の作品を書き慣れてゐるのだらうと私はまた考へなほした。(中略)穏健平明で、決して姑息なるところがない感じである。敢て大きく見せようとする加工の跡がなくて清潔であると思った。(後略)」。ここでいう作者が森荘已池で受賞作『山畠』『蛾と笹舟』についての評言だが、『浅岸村の鼠』にも共通するものあるといえそうだ。
 童話あるいは児童文学には、生物・無生物を問わず身の周りのあらゆるものが同じ目線に立ってものを感じものを言う世界がある。そんな自在な世界の良質な表現が、ここに見られると思った。その背後に『遠野物語』や『聴耳草紙』の世界が深く横たわっているのはいうまでもないだろうが。


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未知谷