『一者の賦』の書評

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コ ー ド
ISBN4-89642-111-6
書  名
一者の賦
著  者
澤井繁男 著
書  評
タイトル
新境地切り拓いた小説の錬金術
評  者
沼野充義 (ぬまのみつよし)
文芸評論家
掲載誌紙
「毎日新聞」
2004年11月28日(日曜日)
おそらく澤井繁男氏は小説家としてよりは、イタリア研究者としてよく知られているのではないかと思う。イタリア・ルネサンスの時期を中心に、特に魔術や錬金術といった「影」の部分に焦点を当て、それが西洋文明にとって霊感の重要な源になっていることを雄弁に説いた著作の数々は、「光」の部分にしか注目しなかった従来のアカデミックな研究の欠落を埋めるものだった(例えば『魔術と錬金術』ちくま学芸文庫)。
しかし、澤井氏は小説家でもある。これまでのところ、小説にはイタリア研究者としての学識はあまり持ち込まずに、あくまでも個人的な経験を核にして生と死について思索を深めていくといった作風だった。現代日本の市井に生きる等身大の人間の感覚に、あくまでもリアルに迫っていくというやや渋い作風だったと言えるだろう。
それに対して最新の長編『一者の賦』(初め『京都新聞』に連載)は、新境地を切り拓く画期的なものである。緻密でリアルな心理描写に加えて、ダイナミックな謎解きのプロット、そして本書の中に惜しげもなく注ぎ込まれた錬金術や魔術に関する薀蓄(うんちく)が、本書を凡百の現代小説とはまったく異なる手ごたえのあるものにしている。
主人公の吉住行広は、札幌で希望信心会という新興宗教団体の教祖をつとめる人物である。もともと妻と弟と三人で、金もうけのために始めた宗教団体だったはずだが、彼はいつの間にか本当の宗教家の風格を備えるようになり、教団運営が軌道に乗って立派な教堂や庭まで作るようになってから、不意に失踪してしまう。小説はその彼の行方を追う妻、弟、そして愛人の視点から書かれ、舞台は北海道から、教祖が学生時代を送った京都、そして彼が宗教的な探究の果てに最後にたどりついたイタリアへと切り替わっていく。
もともと主人公が追い求めていたのは、じつはキリスト教から異端視された「魔術」の神で、「一者」と呼ばれる存在だった。主人公をかつて京都の「宗教学問所」で教えた教師によれば、「魔術の一者の神は万物の中をめぐって、事物ひとつひとつに宿って〈いのち〉を与えて生き生きとさせていく」存在なのだという。しかし誠実な性格の吉住は「一者」の境地にはなかなか到達できない。現実には、悩みを抱えて相談に来る人たちにきちんと道を示すことができず、自分もわからないのだと率直に応えるだけだった。ところが皮肉にもそれがかえって信頼され、希望信心会は入信者を増やすことになった。そんな自分の「自己欺瞞」に耐えられなくなった彼は、たまたま読んだ『愚者の石』という錬金術研究所から刺激を受けて、錬金術の原点であるイタリアへと向かったのだった。
『一者の賦』には主人公が卒論として書いた『太陽と惑星に寄する賦』に始まって、いま名を挙げた『愚者の石』、そしてその中で展開されるD・H・ロレンス作とされる作品、主人公がイタリアで書き上げる『金属の詩』に至るまで、様々な「作中作品」が埋め込まれている。その点を見れば、高度にメタフィクション的な技巧の産物と言える。だが、全体を貫いているのは、錬金術的な知の体系に魅入られた生身の男の探求の軌跡であり、最終的にはむしろ少々古風な思想小説といった趣さえ感じさせる。こうして錬金術に関する深い学問的洞察と鋭敏な小説家の感性が結びついて、これまで一度も読んだことのないような不思議な物語世界が目の前に開けていく。これこそ小説の錬金術と言うべきものだろう。


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