いまや日本は漫画大国なのだという。毎年の出版量は大層なもので大手出版社でも漫画が稼ぎ頭だとか。町の書店を覗けばまず漫画コーナーがあり、漫画と文庫と雑誌だけの書店も多い。雑誌類を除いてもこれだけ漫画本が並ぶ国もあるまい、と思えば頷けもする。なに、それがよろしくないというんじゃない。どちらかといえば昨今の漫画の表現力に感心している小生(寒心もするけれど)、ヨーヤリマスと見ている。これら漫画と称するもの、ほとんどがいわゆるコミックで、アメリカのコミック・ストリップにつながるコマ割り漫画。器用な日本人はさらに劇画てな呼称を定着させてもいる。でも、これだけ漫画が氾濫していてカートゥーンにはなかなかお目にかかれない。ない、といっていいほど少ない。いわゆる一コマ漫画は発表の場も少なく、まして作品集といえる刊行物も少ない。
かつて漫画家をめざす者は一コマ漫画に漫画の本質を見出し、そこに表現の究極目標を定める人が多かったはずだが、いい風は吹いていない。そう思うと、むしろ漫画家受難の時代というべきかもしれない。一コマ漫画など「商売にならん」とあっさり蹴られるのが大方の風潮なのだ。ところがここに奇特な(?)版元によって、久しぶりにナメ川氏の作品集が実現した。ファンとして嬉しいだけでなく、そこに出版の志を見るといえば大仰すぎるだろうか。贔屓の引き倒しにならぬよう売れてほしいものであります。
ナメ川氏のネコは1983年刊の『なにぬねこ』からずーッと見ている。単行本とともに都内で催された個展もたいてい見ているはず。とすると、ざっと二十年。『ネコマタマタ』の「あとがき」に「二十年も猫を描いている」とある。どうやらナメ猫(ナメンナヨではなく、ナメ川猫のこと)のほぼ初期から馴染んできたことになるか。小生は特別に猫好きではないけれど(ときに六匹も同居したが単なる行きがかり)、いつもナメ猫を楽しんできた。
勘違いもあるだろうが記憶でものをいうと、初期作品は絵画性が強かったように思う。細かい点描や線描、黒地が多く見られた。これは銅版画の感覚かもしれない。ついでマチスやスタインバーグを思わせる線が流れだし、才気走った表情を見せるようになる。それがナメ川氏独特の線に定着するのは『CATS PARADE』の前後ではなかったか。で、『ネコマタマタ』では、線はいよいよ円熟の境地に踏みこんできた感がある。うまく化けてきたなあナメ猫は、とそう思ったりもする。
さて、今回のお楽しみは、見開き二頁単位で数点のギャグが配されている(ときに次頁へ連続もする)構成にあるだろう。ギャグは一つだけでも面白いが、それが見開きの一画面に並ぶことで相乗効果をあげている。見るほうは画面の部分部分で笑い、また改めて全体でも笑うという仕掛けだ。お楽しみはもう一つ、カラー頁にもある。原画の深みのある色合いが十二分にでているとはいえないだろうが、ナメ川作品を特長づけるブルーをそこそこ味わえる。このブルーのほんとのところは原画を見るより仕方のないもので、ま、個展に一度おいでなさい、とお節介をいっておきますか。
話は前後するが、ナメ猫の面白さは単に猫を擬人化しているところに止まるものではない。そのどこかに猫の属性というか気性というか、そのへんが見え隠れして笑いを誘う。記憶に残るナメ川作品でいえば、こんなのがあった。全身包帯だらけの猫がぼんやり歩いている。その脇に身体を掻いている猫がいて、そこから蚤がぴょんぴょん逃げだし、ややや、包帯猫に向かっている。これ、人間でも成り立つギャグだろうが猫だから一層おかしい。『ネコマタマタ』でいえば、監獄暮らしの猫の脚が鎖でつながれている。その鎖の先についているのが巨大な鈴、とか。鳥をねらって猫が矢を放つ。その矢が鋭利な頭を残す魚の骨で、題して「リサイクルさ」とか。ネコがヒトで、ヒトがネコ。これが自在に往き来する風情。そうか、ナメ川氏はネコマタだったんだ……そうかそうか。
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