今年の春は遅い。我が家の庭の残雪がようやく消えたのは二日前のことだ。それでも雪の下からは、すぐに蕗(ふき)の薹(とう)が姿を現す。脱兎のごとく掘り起こし、フライパンで味噌(みそ)炒めにして日本酒といっしょに、いただいてしまった。ほんの昨日のことである。
季節が巡ることを痛いほど感じてしまうのは、雪解けの後の土埃(ほこり)とともに生命が匂(にお)い立つようなこの時期のならいだ。T. S. エリオットが「残酷な月」と詠った死と再生の時である。そんな時、海峡の向こうの北の街から一冊のこの季節に相応(ふさわ)しい翻訳詩集が届けられた。奇しくも、それはこんなふうに語り始める。
〈シャーマンとヴィーナスの出逢いは/とても短く 晴れやかだった/春の歓びの迸りのように/彼女は洞窟の入口に入ってきた〉
すべての物語は、まず出会いから始まる。神話作用が人間存在におよぼす集団的無意識の微睡(まどろ)みと覚醒。その心地よさに身を委ねる。おそらく詩の源流はそこにあるのだ。ギリシアの美神ヴィーナスが、ロシアを体現するシャーマンとシベリアで出会うというこの物語詩の核心は、死と再生の永遠の流れに身を委ねる心地良さなのだろう。
詩人フレーブニコフはロシアの広大な大地を一緒に旅している友が倒れ、そこに置き去りにする他なくなったとき、野の花たちが歌ってくれようからと、ひとり先へと旅を続けたのだという。その漂泊と覚悟の美しさが心をうつ。やはり死と再生の物語に我が身も漂っていくからだろうか。
北海道大学でロシア文学の教鞭(きょうべん)を執る工藤正廣氏の翻訳詩集ヴェリミール・フレーブニコフ『シャーマンとヴィーナス』は、フレーブニコフの甥(おい)で現代ロシアの画家マイ・ミトゥーリチの挿絵とともに美しい神話的な一冊となった。この詩集誕生の経緯が、またひとつの美しい物語のようで、関心のある読者はぜひ巻末の工藤氏の解説を読んでほしい。人生の不思議と美しさに、きっと元気をもらえるはずだ。
この数年、工藤氏のロシア詩翻訳作業はパステルナーク詩集の相次ぐ上梓も含め、まるで何かの使命に駆られたかのように精力的に続けられている。グローヴァリゼーションの名の下に起こりつつある事柄のあれこれを、その胡散(うさん)臭さと逆照射される物質主義を、この一月ほど思い知らされたことはなかった。(蕗の薹の味噌炒めに現(うつつ)を抜かしている場合ではないのだ)反グローヴァリズムなどと大層なことを言わずとも、広大なユーラシア大陸の、その周縁を舞台とする美しい出会いの物語詩は、私の深い記憶の水脈を優しく揺り動かす。蛇足ながら、現代ロシアを代表する詩人ゲンナージイ・アイギが昨年来日した折り、敬愛する詩人として挙げたのがフレーブニコフである。
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