この復刊された本の著者は、波多野精一氏。初版が出版されたのは、明治三四年九月二六日、著者二五歳の時の作品である。もちろん懐古趣味での復刊ではない。すべて歴史上の人物の著作というものは、単なる若書きと言い捨てられない香気と内容に満ちたものなのであり、この本もまた、哲学学会では非常に高い評価で知れ渡っていたからこその復刊なのである。それにしても、この百年、この本を越える著作が刊行されていないという事実は、実に、日本西洋講壇哲学学会の怠慢を痛打する事件ではある。 私がこの本について知ったのは、1975年、牧野紀之氏の初版『先生を選べ』の中にある「私の指定図書」を読んだからであった。残念ながら、第二版以降の『先生を選べ』では、この部分は削除されているので、今では知っている方が限られており、また紹介することも意味もないことでもないと考えるので、初版の113ページから引用してみよう。
「哲学の本としては、波多野精一氏の『西洋哲学史要』(いろんな所から出ていますが、角川文庫のものが安くていいでしょう)と古在由重氏の『現代哲学』(勁草書房の『古在由重著作集』第一巻に入っていますが、これなどはどこかで単行本にしてほしいものです)とをまず挙げました。二冊とも不朽の名著です。ともに歴史書ですが、日本の講壇哲学のもっともよい所が出ています。立場は、観念論と唯物論というように対立していますが、ともに物事の核心を正確にとらえ、それによって歴史の必然的な展開を明らかにしています。とくに『現代哲学』は日本の唯物論が生んだ最高の傑作の一つですので僕はそれを追いこしていくべき後輩として、いずれくわしい論評を試みるつもりです。」
牧野哲学に惚れ込んだ私は、早速、角川文庫の当該古本を購入し、通勤鞄に入れ往復の車中にて読書をしたことを懐かしく思い出す。しかし、この本は、「ある程度以上この方面に関心を持っていないと読みにくい」(初版『先生を選べ』同ページ)とは言われていたものの、実際読んでみると、実に見事な文語体で書かれている上に、人名の表記や哲学の専門用語も現在ものとは違っていたのである。だから、私には、一気に読むことなどできなかった。そのうちに文庫本は絶版になってしまった。その後、牧野氏の出版活動が発展していく中で、この本がすばらしい理由として、『哲学夜話』では、それぞれの哲学思想を捕らえる時に、(1)その哲学は前代からのどういう問題に取り組んだのか(その哲学者の問題意識)をはっきりさせていること、(2)その問題に対するその哲学者の答え=その哲学の核心を簡潔にまとめていること、(3)そして、その哲学にはどういう限界があり、したがってまた後代にどういう課題を残したかを明らかにしていること、以上三点がしっかりしていることだとした、一層明確な評価がなされた。続いて『囲炉裏端』においては、『西洋哲学史要』が生まれた明治期という時代背景を考え、個人の才能と努力のほかに時代の力を挙げる根拠を、牧野氏は、実に説得的に生き生きと書いていた。
たぶんこの本が買えなくなってから、約四半世紀が過ぎたであろう。出版不況に苦しめられている今この時に、この本を高く評価している牧野氏自身が、「絶版になっているのを惜しんで、再話という形で」世に問うてみる決断をした。絶版となっている理由が、「内容は優れているけれど、文章や用語があまりに古く今の若い読者には読めない」だろうから、「民話を語るように平易に話したい」と、牧野氏は、「再話者の言葉」で述べている。
では、牧野氏が、単なる再話者として、平易に語ることだけに徹しているかというと、まったくそんなことはなく、牧野氏が、この本の欠点としてきたもの、「ヘーゲルについての解説があまりに通俗的で独創性がなく、精彩に欠けること、マルクスとエンゲルスの唯物論について書いていないこと」についても、原作の弱点を補う演技者のように、より積極的で的確な再話者として振る舞っているといえる。なぜなら、波多野氏が書いていないマルクスとエンゲルスについて語るのは、再話者としての役割を越えることになるため、越権行為こそしていないが、牧野氏が、「ヘーゲルについては今回、一番多くの注釈を補って私の考えを加えた」ことを、その証拠として挙げることができる。そして、これらの注釈が、実に貴重であり、本文の要所要所に的確な形で入っていることに、私は驚くのである。
牧野氏のヘーゲル理解に学んで、社会運動に役立てていきたいと考えている私にとっては何とも魅力的な再話者ではある。そして、牧野氏がつける注釈は、キリスト教についても的確なものがある。ヘーゲル哲学とキリスト教との緊密な関係を考えれば、必須の知識ではあるが、この関係の重要性に気づいている者は少ないようだ。
今回一読して印象深く感じたのは、「スコラ哲学」の第2章の「実在論と名目論」第3章「トマスとスコットゥス」第4章「スコラ哲学の衰退」の所の記述であった。 この「普遍論争」の中から、この論争の重大性の意味を深く認識せずに感性の立場に執着した経験論や唯物論とその後この論争を深く認識し最終的に決着したヘーゲル哲学との観点の違いまた分岐の意味が、私にはよく了解できた。その意味で「ヘーゲルは、個別・特殊・普遍を概念の立場と感性の立場で二重に考えることによって、またそれを発展の論理として考えることによって解決しました」との牧野氏の注釈を読んだことは、私にとっては、目から鱗が落ちたようだった。
そしてこの本の弱点の一つであったヘーゲル哲学の部分は、牧野氏の努力で見事に補強修復され、とくにヘーゲル哲学の核心である「論理学」部分は、本文を越える注釈が書かれている。そこでは、「始元をどうすべきか、そこからの展開はどうあるべきか」という問題に対して、ヘーゲルは、「結果が始元になる円環構造とか、存在とともに歩む思考といったこと」を発見して、現象の認識から本質を認識するだけにとどまらず、「客観自身が人間との関わりのなかで」、概念の認識になるという存在論をうち立てた。267ページから引用してみよう。
「それは又客観を現象と本質の二重構造で捉えないで、概念を加えて三重構造にしたという特徴があります。この概念は単に人間の頭の中にある観念のことではなくて、客観自身の意義ないし働きのことなのです。その働きを自然史全体(ヘーゲルでは神、絶対者)の流れの中で捉えなおしたものなのです。ヘーゲルの論理学の個々のカテゴリーの実際の意味については、そのカテゴリーをなぜ全体系の中のここにおいたのかという点を手掛かりにして考えていくと分かることがあります。なぜならこの「位置づけ」こそヘーゲルの最も苦心した点だからです。」
紙面の関係で、これで止めておくが、以上の記述だけでもこの補修が実に良くなされていることが分かるであろう。ここで明らかになったように、ヘーゲルは、普遍論争をアウフヘーベンしたのである。こんなことを明らかにした哲学史書は、この本の外にない。若者に良く通じる言い方をすれば、この優れた再話者のおかげで、明治期の名著は、百年ぶりに数段のバージョンアップを成し遂げた。とくに、ヘーゲル哲学の箇所は、大変わかりやすくなって研究の指針になるまでになっていると評価できる。こうして、読むことのできる人なら誰でも、ヘーゲル哲学が、ギリシャ以来の哲学史の研究成果の上に誕生したこと、またヘーゲル哲学を高く評価し研究する中で、概念の操作術を見事に習得したマルクスだからこそ、リカード経済学の数々の矛盾を解決して資本論を仕上げることができたことが分かる。また、この本を復刊した牧野氏の眼力と未知谷の見識に、私は驚かされる。ヘーゲルのわかりやすい翻訳という評価をうけた曖昧訳で虚名を売っている長谷川宏氏と明確に対立している牧野氏の『精神現象学』の出版も、ぜひこの組み合わせで出版されることをお願いし、今後のヘーゲル哲学研究の深化のきっかけとなることを期待したいものである。
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