『イスタンブールの占いウサギ』の書評

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コ ー ド
ISBN4-915841-73-1
書  名
イスタンブールの占いウサギ――亡命のヤン
著  者
町田純 著・画
書  評
タイトル
永遠に封印された時間の輝き
評  者
沼野充義 (ぬまのみつよし)
文芸評論家
掲載誌紙
「毎日新聞」
1998年11月29日(日曜日)
 東京の渋谷の駅からかなり離れた、半ば住宅街になるあたりの場所に、「オデッサ・イスタンブール」というカフェがあった。日本人にはなじみの薄いロシアとトルコの港町の名前をわざわざ冠しているのは、いったいどういう趣味によるものなのだろうか。そう不思議に思いながら店の中に足を踏み入れると、飾られているさまざまな小物のなかで、ひときわ人目を引いたのは、ネコを描いたおとぎ話の挿絵風の一連の絵葉書である。それらの絵から読み取るかぎり、なんとオデッサ生まれらしいこのネコは、「旅装したり、白樺の疎林に寝転んだり、黒海の断崖に立っていたり」していて、やがて革命の動乱を逃れて、中央アジアからカフカスを経て、イスタンブールへと亡命していくらしかった。
 もっとも、そういった物語がそのとき正確に読み取れたわけではない。これはまだ、絵葉書の作者の頭の中にのみ存在していて、熟すのを待っていたからだ。その後、カフェは道路建設のためになくなってしまったのだが、その代わりに、絵葉書のネコを主人公とした物語が出版され始めた(版元はすべて未知谷)。その著者が、カフェの支配人だった町田純さんである。本にふんだんに盛り込まれているネコの挿絵もすべて著者自身によるものだ。
 ヤンという一風変わった名前のネコを主人公としたメルヘン風の物語のシリーズは、今度出版された『イスタンブールの占いウサギ』で四冊になる。もちろん、これ一冊だけでも十分面白く読めるように書かれてはいるが、できたらやはり他の三冊も合わせて(読む順番は必ずしも出版の順番通りでなくてもいいが)味わってみたい。
 シリーズの最初の本は『ヤンとカワカマス』。ロシアの大草原の中、小高い丘の斜面に建てられたささやかな小屋に、ヤンというネコが一人で(いや、一匹で、と言うべきかな?)住んでいる。ある日、「トン、トン」とドアを叩く音がし、カワカマスという魚が突然訪ねてきて、二人の(?)友情が始まる。カワカマスは毎日のように「明日は名の日の祝いだから」と言っては、食材を借りて行く。しかしお祝いはいつまでたってもやって来ない。永遠に到来しない祝祭を前に、二人の優しい友情はどこに向かうというわけでもなく、美しい点景として大草原に溶けこんでいく。
 二冊目の『草原の祝祭』は草原のなかにただ一本生えたモミの木に、クリスマスのための飾り付けをするネコを描いた絵から生まれた、美しい「散文詩風ロマン」。第三作の『ヤンとシメの物語』は、ネコのヤン、鳥のシメ、そしてクマやニワトリや牛の繰り広げる「小さな劇場」である。そして四冊目の本書『イスタンブールの占いウサギ』でネコのヤンは、ロシア革命を逃れて亡命する白系ロシア人の群とともに、ついに黒海を越えてイスタンブールにやってくる。
 大人のためのメルヘン、といったレッテルでは片付けられない、とても優しく、さびしく、それでいてユーモラスでなつかしい何かがこれらの物語にはある。それはおそらく、主人公のネコが人間のような過去もしがらみも持たずに、ただひたすら「現在の瞬間の高みだけを感じて生きて」いるからではないかと思う。忙しいビジネスマンも、「いまさらメルヘンなんて馬鹿馬鹿しくて読んでいられるか」などと決め付ける前に、一度本書を手にとって、永遠に封印された時間の輝きを実感していただきたい。


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